秋の彼岸会の時期に入りました。
秋といえば、行楽や食事、みなさんにとって一日一日の過ごし方はあると思います。
家族と祖父祖母のもとへあそびにいくということもあったり、、、いっしょに過ごす時間もあります。
なつの時間とあきの時間、あかるく暗くなる時間は、やはり移り変わっていきます。
それでもいつもの時間との変化に楽しさを感じられることは必然といえます。
ぼくは春夏秋冬がまったくなくなってしまうことはないと思います。
しぜんと自然になれていつも通りに暑い寒いになにかとからだが変化することはあったりなかったり、どっちやねん!と、おもしろくなるやもしれないです。
そして、この彼岸会と言いますのは、日照時間が変わり気温差にも変わる一風の移ろいにおのずと何とも言えない空間も訪れます。秋の訪れ
太陽は東から西に鎮みます。そして、月が昇ります。
仏教では、日の早さに身が震えること、いつもと違った日を感じて諸行無常(ことばとしてなかなか出でることもないほど)です。
こころにおとうさん、おかあさん、むすこさん、むすめさんまたは可愛らしい家族との時間が急に感じられなくなってしまうことも少なからずやってきてしまいます。
たとえ、そうでなくてもご先祖様のお墓参りや仏壇の清浄に進むことのたいせつさは無くしてはいけません。じぶんが生きていることは当たり前です。だって生きておられますので。
だれとだれのおかげさまで生きていることの時間をわかることができましょう。
自然とかぞくとの想いを染めて南無阿弥陀仏と手を合わせる機会がないといけないとおもいます。それくらい自分のあたりまえを家族に向けて感謝するトキをつくっていただきたい。
はずかしさの自分やそうでない気持ちいろんな情がそんざいします。
向き合えるじかんに限りが当然あり、会いたくても会うことのできなくなってしまう時は必ずきてしまいます。
その恐れを少なくできるのが、お墓参りや仏壇へお参りも必要です。
親とたとえ会うのがはずかしくて会えなくてもお墓参りくらいはしてあげてください。
日は過ぎる、時間は過ぎる、それを感じれなくなると悟りを開いて誰かに対してたいへん大変ありがたいお話のできる方と感じております。
そうは言いましても、有限です。無常です。西の夕日に手を合わせご先祖様にありがとうございますと言える気持ちほしいです。それがお彼岸の所以(ゆえん)です。
日の移ることは、じぶんと向き合う時間として見てみてください。
きっと、思う気持ちはやってきます。
、、、有目之徒(もくしと) 皆見日沒(かいけんにちもつ) 當起想念(とうきそうねん) 正坐西向(しょうざさいこう) 諦観於日(たいかんおにち) 令心堅住(りょうしんけんじゅう) 專想不移(せんそうふい) 見日欲沒(けんにちよくもつ)
状如懸鼓(じょうにょげんく) 既見日已(きけんにっち) 閉目開目(へいもくかいもく) 皆令明了(かいりょうみょうりょう) 是為日想(ぜいにっそう)、、、
目(め)ある徒(とも)がら、皆日(みなひ)の沒(もつ)するを見(み)よ。まさに想念(そうねん)を起(おこ)して、正坐(しょうざ)して西(にし)に向(む)かい、諦(あきら)かに日(ひ)を観(かん)ずべし。心(しん)をして堅住(けんじゅう)し、想(そう)を専(もっぱ)らにして移(うつ)さざらしめて、日(ひ)の没(もつ)せんと欲(ほっ)して、状(かたち)、懸鼓(げんく)のごとくなるを見(み)よ。
すでに日(ひ)を見(み)おわりなば、目(め)を閉(と)じ目(め)を開(ひら)かんに、皆明了(みなみょうりょう)ならしめよ。これを日想(にっそう)とする。 合掌十念