わたしたちが、うまれて現在。
今日も平和、平生(へいぜい「何事もなく」)、いつも通りに過ごせたといった日をおくっていることとおもいます。
そのなかでも、御家に、親戚の家に、親しい方の家に目にする者はなんですか?
おそらく机の上、おそらく鑑賞のもの、はたまたその人でないかとおもいます。
あたりまえに見ていて、もらえているのは愛情、愛着、好意ではあるとおもいます。
ぼくは、今はひとりの時間を大切にさせて頂いているものではありますが、ひとのつくっていただいたもの、また、その方たちとの交流を大切にしています。
わたしの世代の話にはなってしまいますが、SNSのとある人のはなし、、、。
おうちに引きこもってしまって、自分の好きなことに自活なさっているかたがおりました。
じぶんの歌を投稿なさってみたり、おつくりになられた動画作品を見たりとそれはそれで楽しい時間を見出されて、今はたくさんの方に見て聴いていただけるほどのすごい才能として開花されました。
ぼくは傍から見れば、一、視聴者、一、見守り人と言ったところにいます。
だれかが、その人を案じていることもまた道理に値する話です。
わたしたちは、なにをみて、なにをきいて、なにをかんじて、なにをたいせつにしてすごしていますか。
ぼくは、お家にお寺に仏様、本尊さまがいました。
うまれて現在まで。
みなさまの家にはほとけさま、またはかみさまはいらっしゃいますか?
ほとけさまの話を軸に話をします。
わたしの家の本尊は阿弥陀仏です。
あみだぶつは、あかるくいろんなかたを照らし救っているお方です。
それが、あみだぶつの光明はあまねく十方の世界を照らし、念仏を称えてくださるかたを、ひとりも見捨てず救ってくださるほとけさまという。お経の一説に説かれております。
そこに、わたしがなにをして救っていただけるのかといいますと「南無阿弥陀仏」と六文字の名号をお称えつづけることに意味があります。
ですが、わたしたちの思いは臨終を迎えた後の時間にとおもえるのでしょうか。
不思議ですよね。生きていて自分は阿弥陀仏のみ前にして名号をお称えしているお坊さんにお布施をお渡し(終わってからもある)して、墓前に立っている方の回向、供養をしてそれで御しまい。
現実に見ても会って話して、またねという日常にあいさつをしてさようなら、ありがとうといったやり取りのなか、自分自身で善いとおもえたことを、酔いと思ってお過ごしになっていることを日頃にお過ごしにできてしまうこんなさみしい日は、ほかにないと云いたい。
人と人との関係はいうなればそれでも正直成り立つ。それがあって日常を過ごせもできます。
だけども、私自身となくなってしまったかたとのあいさつや会話は、なにごともなくして行ける程、大らかにすごせるのはお父さん、お母さんまたはパパ、ママそしておじいちゃんおばあちゃんの愛着はそれまでの都合のいい関係見れてしまうほどけったいなものでありましたでしょうか。
もちろん、口や態度で見せてくれる方そうで無い方はいます。
自分で自分のじかんをつくるのは常のことになってきます。それがいうなれば自立といいましょう。
ここで悪くいうのは控えておきたいです。
平生っていったいどんなことをして「平生」というのでしょうか。
護念増上縁(ごねんじょうじょうえん)という
令和8年9月25日(金) 合掌