令和7年10月14日(火)
浄土宗の教え(教義)はお念仏です。
『南無阿弥陀仏』とお称える(声に出すこと)にあります。
まず、『南無阿弥陀仏』と「十念」を為す(なす・行為としてする)ことです。
浄土宗の元祖、法然房源空上人がとてつもなく苦しく貴族や地位の高い方しか救われていなかった時代に私たちも救われるものは無いかと(さとりを得て生きる以外に) 一切経を読誦を数遍繰り返し、また善導大師の『観経疏』(かんぎょうしょ)から救われる教えを探しみつけたことが浄土宗を開山された教えが今日まで現在も生き続けています。
一切経や観経疏に救われる經や書巻に出会えたものは
光明遍照 十方世界 念佛衆生 摂取不捨 (観無量寿経 第九観『佛身観文』又『真身観文』)
「人は散漫な心のまま、ただ念仏をとなえればよい」
「一心に専ら弥陀の名号を念じて行住坐臥(行動・住む・坐る・寝る)に、時節の久近を問わず、念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく。彼の仏の順ずるが故に」
さらに要約しますと、われはただほとけにいつか あふひぐさ こころのつまに かけぬ日ぞなき
それが【つきかげのいたらぬさとはなけれどもながむるひとの心にぞすむ】
法然上人の救いの悲願が阿弥陀仏と釈迦牟尼仏と善導大師の大慈大悲に掛かり五色の糸が光明に輝いていき衆生であるわたしたちを誰ひとり救い取って捨てることはありません。
約平安時代から現時代までなくなることなく『往生之業 念仏為先』と全世界にゆき届いています。
過去にはそんなことのない流れがありましたが、それでも念仏(南無阿弥陀仏)の救いが必要のないことはありませんでした。
この令和の時代にも、もちろん途絶えません。みなさんがイキをされていますのであれば、かならず念仏のこえや阿弥陀仏のきこえないみえないということはありません。
もしあれば地球がほろびることになりますが、それでも阿弥陀仏のみ光(光明)は消えません。
消えるのは、自分自身の悪しき心が消え、自燈明と法燈明が燈りつづきます
暗くなりやすく、汚い空気を吸い、それでも【あかるく】【ただしく】【なかよく】を【たのしく】
灯火がゆらぐ、あたたかい時間を活きてゆきましょう。生かせてください。
一心専念 弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故
合掌十念