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令和7年9月6日(土)

スタッフブログ

2025.09.06

前回までの2日分の投稿での誤字脱字や変換ミス等々気持ちよく読んでみたいお気持ちにそぐ得ていないことは自分でも承知させていただいております。

言い訳になってしまうことも分かっていただきたく、わたしにもわたしのお坊さんとしての行住座臥(行い止まる座る寝ること)の平生(へいぜい)【日常のせいかつ】があります。

皆さまにももちろんありますし、私にもあります。誰も決められているようで決められていない時間を自然と歩み動いています。

ですが、それでは人間社会(秩序)など細かいことにルールなど落ち着かせるためのものがあります。

そのなかで自分のなかでこのルールではイヤだこの様にしたいと我(が・われ)というものが発生します。

そこで今回は十二縁起ということばがあります。

無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死

1、無明(むみょう)・・・うまれて誕生してなにもかもわからない無知のこと(迷いや真実を見抜く智慧がない状態)=赤ん坊

2、行(ぎょう)・・・無明の状態から識(認識に近い)となる意思や行動の表れ

3、識(しき)・・・見ているもの考えているものの意識が無意識から意識になる。(なっていく)※母胎にやどる初めの意識(言うなれば初見)

4、名色(みょうしき)・・・母胎の中の心的初動(名 みょう)、肉体的なこと(色 しき)が発達していく状態=他から観られたときの行動(たとえば歩くやしゃべる)

5、六処(ろくしょ)・・・眼・耳・鼻・舌・身・意(こころ)という六つの感覚器官の発達していく

6、触(しょく)・・・眼・耳・鼻・舌・身・意が本人の意識的行動として見れていく(ただし無知・無意識で意識的理解ではない)=あらゆるものに触れて認識していくこと

7、受(じゅ)・・・認識してゆき、苦楽(苦手楽しい)の感受がはじまっていく

8、愛(あい)・・・感受して自分自身が受け取った認識で『欲望(愛欲)好き』や『執着(愛着)ここでの執着(愛も含む本当のやさしさ)※書きすぎたくはないですが

がうまれる段階

9、取(しゅ)・・・欲望の目先や矛先が執着心に変化していく(善悪あり)

10、有(う)・・・愛や取生み出される、行為(業 ごう・カルマ)で、次生(結婚やその他)になる

11、生(しょう)・・・過去の有によって、新しい生命の誕生 ひとのためになること

12、老死(ろうし)・・・生まれたいのちが老い、死んでゆくこと いきてきた意味のある事と認識

このように、赤ちゃんと呼ばれて子供になり青年となって老人という明るくも暗くもなる山あり谷あり紆余曲折のある人生としてたいへんしあわせになる生涯を送っていくのが、この世です。

浄土宗はこの繰り返される輪廻(輪)の苦しみを無くすために、西方願王阿弥陀仏の在ます(まします)西方極楽浄土に往き生まれることを願う宗派です。

そこで、たいせつなのが、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と十念乃至それ以上の称名念仏です。

好きになってもらうときや好きになってもらいたいとき、まず声に出して気づいてもらう。

今では文字や気持ちを見て好意を伝える。

かんたんなことです。

ですが、ひとの世は気持ちの代わりの波のあるものです。それでもじぶんの感情と闘いながら生きてゆきます。

上げてもキリがありませんし、それだけたくさんの人がいます。

乗り越えて下って(山あり谷あり)です。

ひとは決してひとりではありません。智慧や知識は誰かがいてうまれて見かたや考えの違いであらそいが起こり果てしないです。

欲があれば、楽しい。欲が無いから、つまらない。

簡単にかんたんにいうとそうなってしまいます。

過去があって現在があり未来があります。

苦しい世界ですが、くるしいせかいだけではありません。

救けてもらえます。

よろこぶ、おこる、哀らく(ここではかなしく)、たのしむです。

遠くから見れば小さいが、近くから見れば大きいのちがいです。

人生なにがおこるかわかりません。

みんながみんな有能ならお坊さんや宗教も必要なくなります。

だから、少欲知足

このブログも英隆基準でお伝えしてしまっていることをご容赦お願いします。

みんな違ってそれがいい

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