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令和7年9月24日(水)

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2025.09.24

今回は清源寺のちょっとした歴史についてです。

 石塚山清源寺(浄土宗)の創立は、天文3(1534)年で、開山は宅誉全賀上人で本尊は阿弥陀如来像です。

「三河国吉田名蹤綜録」によると境内地は、石塚清助が入られた古城址(こじょうし)でもあります。それが清源寺砦と称され、地域の方の拠り所の一つとして残されました。現在は清源寺で今現在もあります。また、江戸時代後期の文化年代(1804~1817年)、関宿城城主久世大和守の下に、石塚清助という家臣がいました。関宿城(せきやどじょう)は千葉県野田市関宿三軒家にあったお城です。

簗田満助(やなだみつすけ)か簗田成助(やなだしげすけ)のどちらかが関宿城の初代城主とおそらくなっています。

江戸川を遮る(さえぎる)ような縄張りをもっており、利根川水系等の要地(重要な地域)で、関東の水運(水路での運び)をおさえる城だったそうです。

そこに城主十二代藩主の久世大和守広(廣)之(くぜやまともりひろゆき(おそらく))の(広(廣)之ひろゆきは江戸時代の下総国関宿藩)下(家臣かしん)に石塚清助という方がいたそうです。(現在石塚硝子さん関係ある方)

深掘りしますと、途方に暮れるので歴史はまた今度で、、、

戦国時代に今川義元(静岡県)の寄進を受けた寺院です。

 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に、羽田村「浄土宗石塚山清元(源)寺,吉田悟真寺末寺、平僧、客殿五間・三間、境内東西三十四間・南北百弐間、御黒印、寺領弐石目、伊奈備前守様御証文在之」とあります。

「三河国二葉松」(元文5年)に「羽田村、黒印二石、浄土宗鎮西派、本寺吉田悟心寺(現在悟真寺)、石塚山、清源寺」とある。

 清源寺は,大正3(1914)年、大正13(1924)年と再度類焼し、旧記古証文、什宝(じゅうほう)などを失い、その後本堂、庫裏(くり)、稲荷堂などの新築復興を完成したが、昭和20(1945)年6月の空襲で境内建物一切を焼失した。昭和28(1953)年本堂、庫裏を再建した。(本堂後ろに書いてあります。)
歴史はそれなりに深いです。松平氏、徳川氏、久世氏、今川氏石塚氏等清源寺の歴史をですが、辺り次第調べていくのは大変です。ましてや、空襲でほぼほぼ焼失はたいへん痛ましいことではありますが、調べることのできる内容があって本当によかったです。

また、清助さん(考察)や関宿藩や吉田藩や細かい歴史は時間に余裕がある時に投稿しますね。

南無阿弥陀仏 合掌

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