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れいわ7年9がつ3ひ(水)

スタッフブログ

2025.09.03

ここでのお話は、毎日とはいきませんが体調や気持ちや気分、精神の病気も寄り添って「今」しか、つぶやけなかったり自分の仲にあるおもいを表に発信して浄土宗のこと、自分自身の気になっていること、感情の移り変わり、それの時節の久近(じせつのくごん)を問わず起こっている事物に対してぼやいたり、つぶやいたり自身の心情をお伝えもし、悩んでいたり思いとどまってつらいときなかなかことばとして伝えにくい『こころ』をお見せしたり、また逆も然り(しかり)みなさんのひととしての人間としての者としてのお気持ちをここでは文字として聞く伝えるきっかけになればうれしく幸いにおもいます。

今日の言いたいことは、この浄土宗のお坊さんはどんな人なんだろう、宗教の意味、仏教の意味意識の機をおもしろおかしくまじめに気軽に観てもらえたらいいなとおもいます。

ちなみに、障がい者または利用者と呼ばれているや、ことば・文字で誹謗中傷の対象になりかねない、その思いより自身のコントロールが社会に認めてもらえずもがいている同じ人間であるはずなのにじぶんよりそうではないと泡をぷくぷくして悲観の水波のおぼれてしまう方が多く見受けられてしまう哀しい時代へ悪化して、まず、日本の人であるはずが色が付いてその色より彩(いろどり)~豊かに着色して現代病に現(うつつ)を抜かす人愚かな愚者が目まぐるしい(メランコリー)ときのながれを並走せざるを得ない厭離穢土の手厚い歓迎を取っ払うのが浄土宗の「南無阿弥陀仏」とお称えするお念仏が浄土宗の要の要訣(ようけつ)です。

ホームページの一番上のあたりに掲げている偈頌(げじゅ・お経の意)「光明遍(徧)照 十方世界 念佛(仏)衆生 攝(摂)取不捨」 これを攝益文(しょうやくもん)といい、

「如来の光明は遍く十方の世界を照らして念仏を称える衆生を救い摂って捨てたまわず」とだいたい訳されます。

わかりやすくすると、南無阿弥陀仏と口から称うれば皆阿弥陀仏に救い取っていただけるというものです。

人は皆一切皆苦、そのなかでも反省や悪く思わないひとがやっぱり減りませんそれも世の理となればそうなってしまいますが、にんげんとしての本能重視もたいせつですが、その気持ちだけでは決してよいものとはなりません。ですから、ふつうの言葉であって文字ではなく、意のあることでひとの心、気持ち様々に受け取って救いとっていただけます。

いいこともいいこと、わるいこともわるいことの自覚を無くさないでください。

その加減をうやむやにされて、よりつらくもなるご時世です。

ひとはみな人、天上天下唯我独尊

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